京都うちきり漫画家

商業連載終わって二ヶ月。再び連載できるまでの記録(日記)を書こうと思います

「締め切り」ってだいじ…

20年来の友達と久しぶりに飲んだ。

その人は博士号を取るため研究中の身で、論文を書くのに苦しんでいると言っていた。

漫画を描くのに苦しんでいる自分と同じ気持ちで、本当に話が盛り上がった。

 

その人の研究内容もニッチなものらしく、必要とされてるのか分からなくて苦しいし、自分が行動を起こすことでしか何も進まないから、研究がうまくいっていないときは本当に苦しい(研究がうまくいかない、というのはどういうことか具体的に聞けば良かったが、私が想像もできないいろんなことがあるんだろう)。

パソコンの前に座っても何も書けなくて嫌になる。

 

漫画だって別になくても誰も困らないし、連載じゃないから締め切りや催促もなく、自分一人で奮い立って動かないと本当に何も進まない。だから何も成果がなくて苦しい。

 

かなりの時間このことで語り合って、帰りの終電で一人考えた。もしかして今自分が「何も描けない、描きたいものがない」という苦しさって、締め切りがないからってだけなんじゃないか?

締め切りがあったら、何が何でも間に合わせるために考えるから、おのずと描きたいものが出てきたりして進むんだ。

博士号を目指す友人も、教授に「悩むのは普通のことだから、動きながら悩みなさい」と言われたそう。一番心に刺さったあ〜

 

高校の時から担当編集者という存在と漫画のやりとりをしてきて、ずっと何かしら締め切りがある生き方だったのに、急にそれがなくなってしまったから戸惑ってるのかもしれない。てゆうか描きたいものがないっていう感情を「締め切り」の存在によって分からなく(まあ、わかってはいたんだけど)していた可能性は大いにあるし、締め切りってそういうものか、そもそも。

 

ところで夏前に応募した秋の関西コミティアは受かったのだろうか。まだ封筒が届かないので落ちたのかもしれない。

「マンガイチ」というマンガワンの賞に応募するための読み切りを描こう。

月一で賞を決めてるみたいだから、9月中に一作完成させよう。

 

バイトを始めたので、いい感じに日々の時間に締まりが出てきた。

スキマ時間の方が人間やる気出るからな〜

 

「やらねば」になってる漫画は辛いぞ

なんでもいいからコマをわって漫画を描こう、と机に向かうと、何もない状態なので白紙が長いこと自分の目の前に広がることになる。

 

日々ネタ集めてるメモ見たり、何かしらのとっかかりはあるので思考を深掘りしていっても、その思考の終わりにある成果物は無に等しい(というか毎回白紙に戻ったり、数日後に白紙に戻ったり途方にくれたり)、というのを繰り返すばかりの日々になっている。

苦しいやら辛いやら…

 

「何かしら描く」のは日記漫画でもいいのだけど、収入面が心配なあまり、早く「お金になる漫画」を描かなければ、と焦っているのがよろしくない。つまり連載になるような読み切りなり、企画なりを考えなければ、ということ。

そんな一朝一夕でできるもんじゃないとはわかっているけど、だからこそこんな辛いのをいつまでもぐるぐるやらなければいけないのかと思うと苦しくて、漫画を考えるのが辛くてたまらん。

 

そんな矢先に夫が、ひょんなことからXのフォロワーが増えた私に対し、ふざけて「プロみたい!もうプロか!」と会話の中で挟む折があった。

漫画に対して神経質になっていた自分にはこの言葉がぐさっと刺さってしまった。

今は確かに連載もしてないしアルバイターだし、プロとは言えない現状かもしれないけど、ある程度は食っていたし、食える位置にまた行こうと頑張っている身なのに、そんな人に、そんなこと言うのか…!(夫には漫画で苦しいことはあまり言ってないので仕方ない。冗談だし。)

 

自分でも驚くほど落ち込んで、漫画が辛い自分にやっと気づいた。気づいて泣いた。

この涙は「こんなに辛かったら続けられないじゃん、漫画描くのは楽しいから続けたいのにどうしよう、自分なんてダメだ」という気持ちの涙である。

(涙の理由を分解してみて、やっぱり漫画を描くこと自体は好きなのだと再確認できた。)

 

ここでまた八木仁平さんのyoutubeにアドバイスを勝手に頂戴する。

ちょうどyoutubeを開いたら「やらなきゃいけないと思ってること」という字がバーン!とサムネに来ている動画にぶち当たったんだもの。そりゃ見ちゃうよね。

 

「せねばならない」「するべきだ」と思ってることは”頭”からの指示らしい。

「したい」と思ってることは”心”からの指示らしい。

この両者の指示が食い違ってると、人は葛藤し迷うということ。 

「やりたいことだし、自分にとってはやるべきことだと思う」という状態が最高だ。

しかし”頭”ばかりに従って”心”を無視し行動を起こすと、上手くいかないし続かない。

 

やりたくて行動を起こしてる人の周りにはエネルギーが満ち溢れていて、そういうところに人とお金は集まるのだ。

したくないけどしなきゃならないことをやろうと努力したって、一時はできるかもしれないけど、長くは続かないよ。

 

 

なので今日は漫画のネタを考えることからは離れて、好きな和服の絵を描いた。

 

四季の自然がモチーフになった文様を描いたり見たり、鮮やかな日本の着物の色の組み合わせを見てると自然と心が弾んで楽しい。

そういえば高校のとき初めてコピックを買った時も、朝ごはんも忘れて着物の柄の絵を描いてた。まさに三度の飯より状態、めちゃくちゃ楽しかった。まだSNSもやってなかったのでどこにアップしようとかの目的もなく、ただ絵にしたくて描いてた。

久しぶりにそんな気持ちに包まれて良かった。

 

夫にも朝から涙事で迷惑をかけたので(ちゃんと謝ってももらった)、こんなことなら漫画から(連載ネタ考えることから)少し離れたっていいんじゃないかと思った。いや、一旦離れよう。無理。離れたい。泣くくらい辛いっておかしいよな。会社だったら辞めれば?って言ってると思う。

 

 

 

 

 

母のおにぎり

帰りの新幹線でお母さんが握ってくれたおにぎりを食べた。

 

モチャモチャと海苔が、水分の多い米の水分を吸って、湿に湿っているので、食べ終わった後とても歯についてそうだ。食べ慣れた味の昆布に突き当たった。そういえば、中身は何かなと思っていたなと気づいた。

名古屋で窓際のおじさんが降りていったので、私も窓側につめた。すると別のおじさんが隣いいですか、と座ってきた。体臭、キャベツの匂いがする。こう言うと伝わらないが、生の青臭いキャベツの匂いという表現しか思いつかない。小学校の同級生の女の子もこういう匂いがした。なんでこういう匂いになるのかな。同じ匂いだ。

 

母のことを一人の人間として接せられるようになって、自分もだいぶ大人になったと近頃自負していたのだけれど、この二日後風呂に入りながらふと、あの慣れた昆布の味は小学校の頃の思い出だ、と思い出した。やっぱりいつまでも人間は子供の時のままなのかもと思った。

 

とりまなんか描くか

描きたいものがないって言うのはもうやめよう。

 

描きたいものなんてそうそうないらしいから。

みんなそんなになくても、なにかしら描き続けてるらしいから。

描くってこと自体が大事だから。

考え続けて、描く動作が止まってたら、それこそなにもうまれないから。

昔受けたアドバイスのメモ、今見ると

昔受けたアドバイス、その時感じたことと、今見返して感じることは違うと改めて思う。(当たり前だけど…面白い)

 

ネームを描いて、担当さんにやっとの思いで提出して、ドキドキしながら返事の電話を待ちーの、ドキドキしながら電話口で受ける指摘やアドバイス

もちろんその時のためにはなるけど、2ヶ月後とかにその時のメモを見返すと、それってこういうことじゃない?というのが客観的にすんなりわかる。

なんであの時詰まってたんだろうとハッとする。

 

そりゃその時描いてる作品のことばっかり考えて過ごしてるんだから、視野は狭くなるのは仕方ない…が、

もうちょっとその時その時で客観的にラフな体勢で見れたらいいなあと思うのであった。

 

電話口でのメモは取っておくべきだなあ。

とりあえず描こう…

数日たったが変わらない。

なにも描きたいものがない…。

 

お盆の帰省での長い電車の旅路でも、ずっとネタを考えていたがどれもパッとせず、自分にはやっぱり軸(テーマ)を考える力がないな…と落胆した。かつ、お盆のレジャーは楽しんだ(笑)。

 

今日また「漫画 描きたいものがない」と検索してみたら、そんな人に喝を入れているブログがあった。

「描きたいものがなくてもとりあえず描けよ」とあった。

まんまと促された。なんでもいいから、コマ割って漫画にしたもの(イラストじゃなく)をとりあえず描こうと思った。まあ結局それしかないんだよね!

同い年のモデルや、歳が近くて同じ境遇の漫画家さんの投稿に元気付けられる。

あと大学の友達も最近映画を出した。

その子の作品の雰囲気が在学時のときのままで懐かしいと共に、新作だすのってやっぱいいよな~となった。